日本

大地と海に刻まれた記憶ー諫早から軍艦島へ

諫早から軍艦島へ
yasukoo

2025年8月12日~13日

軍艦島へ行ってみたい!からこの旅の計画がスタートした。

何故、軍艦島へ行きたくなったか?

「海に眠るダイアモンド」という神木隆之介さんが「現代に生きる玲央」と「1955年の高度経済成長の端島(軍艦島)に生きる鉄平」の二役を演じていたドラマを見たからだった。

どんなところなんだろう?

TVドラマ

海に眠るダイアモンド

「海に眠るダイアモンド?」どんな意味があるんだろう?

題名に惹かれて見ることにしたドラマ。

現代と1955年が行き交うドラマ。どんどん引き込まれていった。

炭鉱に生きる人々が暮らす町ー端島。学校もあり、映画館もある。島ですべてが整う。しかし、そこに住む人々への偏見もあったようだ。そして、キリスト教のこと。知らない世界を垣間見たドラマだった。

それまで、軍艦島と言う名前から戦争に関する島だと想っていた(笑)しかし、島の全体が戦艦「土佐」に似ていたからその名で呼ばれるようになったようだ。端島では、1890年から石炭採掘が始まり、1974年に炭鉱が閉山まで人々は暮らしていた。最盛期には約5300人。今では、無人島である。2015年に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。

このドラマでは、いろいろなことを感じた。

当時のエネルギー源は、炭。それが深い海の底にある。それを採掘する人々。「海に眠るダイアモンド」とは、炭であり、そこで働いた人々がキラキラ光るダイアモンドのようであったということだと想う。そして、今でもそのダイアモンドは、資源として記憶として眠り続けている。という意味だと私は捉えた。

間違いなく、そこには人間ドラマがあった。人々の足跡がある。

今の軍艦島ー端島は、何を伝えてくれるのだろうか?それを考えただけでわくわくする旅の始まりだった♡

軍艦島クルーズについて

軍艦島上陸クルーズを検索すると、行きたい日程のクルーズは5つの船会社すべて満席。

参考サイト 長崎旅ネットさん

どうしよう?

あきらめきれない・・・(笑)ふと!旅行会社なら、空いてるかもしれない!そう想って、検索してみた。そうしたら!あるではないですかー\(^o^)/

HISさん。よかったー。

個人で予約を取れない場合は、旅行会社なら席を確保している場合があるので、検索してみることをおススメします!

googleマップで行きたいところを探す

決まっていること

  • 軍艦島クルーズ 2日目午後
  • 長崎の原爆に関するところへ行く
  • 山王神社(二の鳥居)へ行く
  • 福岡空港から長崎へはレンタカー移動

HISさんのツアーについていたもの

  • 稲佐山スロープカー
  • 出島

1日目と2日目の午前はどこへ行こう?

お決まりの方法は、旅行のガイドブックとgoogleマップを見ること。気になるところは、島原・雲仙。(←結局行ってない(笑))

ガイドブックで、かわいい写真をみつけた!諫早のフルーツバス停!

諫早・フルーツバス停通り

「諫早」を検索する!すぐにでてきたのが「大魚神社 海中鳥居」。神社好きな私には、たまらない!わー行きたい♡

大魚神社

(google検索のスクショから)

でも「大魚神社 海中鳥居」で検索すると、佐賀県とでてくる。それでは行けない(涙)

だから、今回の旅は、諫早のフルーツバス停から旅を始めることにした。

1日目(諫早)

  • フルーツバス停
  • JR小長井駅
  • 長戸鬼塚古墳
  • 橋を渡って唐比ハス園
  • 諫早の街を散策(眼鏡橋など)
  • 諫早神社
  • 熊野神社
  • 阿蘇神社
  • 稲佐山の夜景(スロープカー)

2日目(長崎)

  • 西山神社
  • 原爆落下中心地
  • 原爆公園
  • 山王神社(一本柱)
  • 長崎ちゃんぽん(ランチ)
  • 軍艦島クルーズ

神社、古墳が大好きなので、ついつい神社巡りになってしまう(笑)今回、長崎の「天御中主様」にお会いしたかったので、検索したら「西山神社」だった。ここで、不思議な体験をすることになるとは、この時は想いもしなかった。

福岡から諫早へ

1日目

導かれし大魚神社 海中鳥居
大海神社

レンタカーを走らせること1時間ほどたった頃、何故か「写真で見た大魚神社の海中鳥居」を通ることになった。ナビがご案内してくれたのだ!嬉しい♡感謝♡

千と千尋の神隠し

そこは、「千と千尋の神隠し」の世界だった。カオナシと千尋が乗った列車がそこに存在していた。神秘的な空間だった。

この辺りは、有明海の干潮と満潮の水位により時間ごとに変化する幻想的な風景を楽しめる場所としても有名です。

私が訪れたときは、満潮に近い時間。だからこの風景に出会えた♡感謝♡

かわいいフルーツバス停通り

息子が「ここ来たかった!」と言った。良かったー♡喜んでもらえて嬉しい♡初めにであったバス停は、みかん。何ともかわいい♡

写真がうまく撮れない!?JR小長井駅

海のすぐそばにあるJR小長井駅。無人駅。時刻表をみると1日に数本しか電車が通らないらしい。でもだから、ホームまで入って写真を撮ることができた。ここに住む人々ののどかな時間を感じることができた。感謝♡

導かれなかった長戸鬼塚古墳

この古墳は、石室があるとgoogle検索でみたので、ぜひ行ってみたかったけれど。ナビでは遠目で見るところへ案内された。近づく道がわからず・・・断念。でも、緑の古墳と青空の素敵な写真が撮れた。感謝♡

長戸鬼塚古墳
橋ではなかった堤防道路(雲仙多良シーライン)

爽快な橋を渡って雲仙の方へ!と想っていたら、堤防道路だった(笑)堤防道路は、初めて見た。左右の水の色が違っていた。向かって右が有明海。左が調整池。前日まで雨が降っていたからだろうか?調整池の水は滞っていた。自然の循環をしている海は、綺麗な海色をしていた。自然はすごい!と想った。そして感謝♡

堤防道路

しかし、人が作った人工物もすごい!諫早湾は干満さが激しく、本明川河口から沿岸にかけて干潟が成長し、古くから洪水や高潮の災害が多かった。それを防ぐために堤防は作られたのだ。後に訪れる諫早神社も大水害にあい、鳥居などが流されたことがあると記載がある。人は、その時代、その時代で必要なことを生み出す力を持っていることを感じた場所であった。そして、先人たちが行ってきたことは「すべて正しい。」に繋がる。時代の変化の中で、その時生きた人々が考えだして行ったことは、すべて正しいのである。感謝である。それに気づくときがきている♡と私は想う。

タカク/タカキという地名とホツマツタヱ

諫早堤防道路

この堤防道路は、諫早の南、島原半島の付け根に広がる高来(たかき)と吾妻を繋いでいる。この「たかく」とも読める地名は、ホツマツタヱに見ることができる。それは景行天皇が九州を巡り、「くまそ」を征したとき、船で上陸したのが「タカクの地」だったとの記述である。ホツマツタヱとの繋がりをここでも発見でき!嬉しい気持ちになった。

そして、この「たかき」は次の諫早の街散策へも繋がっていく・・・

古代を感じた諫早の街散策

諫早の街のスタートは、高城神社からだった。諫早公園の南東角に位置する。何とお読みするかはわからないが「タカキ」と読めるので、不思議な繋がりを感じた。昭和32年の諫早大水害で大破したため、現在地に移築されたようだ。諫早公園は高城跡(諫早城跡)とされ、小高い丘になっている。ここは中世に築かれた城跡のようだが、この地名の響きに、私は”もっと古い記憶”を感じた。

それは、2つの鳥居からである。高城神社にある鳥居は、高いエネルギーを感じた。

そして立ち入り禁止になっていた諫早公園の北西にある鳥居の奥からのエネルギーは古代を感じさせるものだったからだ。

もしこの丘がその”タカク/タカキ”と重なるのだとしたら、この街の中に古代の航路の記憶が眠っているのかもしれない。ホツマツタヱに出てくる「タカクの地」かもしれない。そう想えた、もう一つの理由は、諫早を流れる本明川がとても気になったから。この川は、先ほどの堤防道路の高来がある有明海から続く川。古代の人々は、有明海からの川を船で上り、この地に入ってきていたのではないだろうか。そう想えてならない。。。

その本明川を上流へ進み、諫早神社へ向かったのは、眼鏡橋を見てからのことになる。

小さい眼鏡橋は湖面に綺麗に映っていいたが、大きい眼鏡橋は、前日の雨の影響か湖面に綺麗に映ってはいなかった。しかし、その湖面は太陽からの光をキラキラに輝かせていた。水に感謝♡

本明川

そして、本明川沿いを歩くこと10分くらいだろうか、諫早神社に到着した。

諫早神社の不思議

まずは、光の歓迎を受けた諫早神社。

諫早神社

縁起書によると、当宮の創始は
平城京・奈良時代の神亀五年(西暦728年)に、聖武天皇の勅願により
行基菩薩が当地へ赴いて石祠を祀ったのが始まりと伝わる。もとは九州総守護の神々をお祀りする「四面宮」という社名の神社であった。

(諫早神社HPより)

しかし、そこには古代の香りが漂っていた。まず、目に入ったのは三柱鳥居。これに初めて出会ったのは、「不二阿祖山太神宮 」だった。そこでの三柱鳥居は、宇宙からのエネルギーをいただき、大地へ運ぶ場所のように感じたからだ。ココにソレがあるんだ!驚きとともに、この地にとても惹かれた♡

さらに、たけくらべの碑。駐車場の片隅にあった小さな祠

この2つが物語るのは、縄文の頃、いやもっと前のかもしれない、この地は宇宙との交信する大事な場所だったのだ!ということだ。

たけくらべの碑、これは「かぐや姫」が連想される。かぐや姫は、竹からおぎゃーと生まれ優しいお爺さんとお婆さんに育てられ、年頃の娘になったとき月へ還っていった。というお話である。

しかし、最近になって聞いた話がある。宇宙戦争をしていたとき、宇宙人が数人の生まれたての赤ちゃんを危険から回避するために、宇宙から地球へ落とした。日本や他の国々に落とされた赤ちゃん。日本人だけは、「かぐや姫」の物語のように大事に育てた。だから、日本は宇宙から守られている。

何とも壮大な話であり、信じ固いかもしれないが、私はそのお話を受け取ったとき、とても納得したのだ!そして、この地で「かぐや姫」の碑をみつけ、そのすぐそばに小さな祠を見つけた。そこにソレがあるのには、意味があると私は想っている。きっと、この地は古代の人々が宇宙人と通信しながら暮らしていたのだろうと想像できた。

心地よくふく風が私に語りかける。「気づいてくれてありがとう。」

静寂な熊野神社

森の中にひっそりと佇む「熊野神社」。今の人々も大事にしている村の神社と感じた。

諫早市真崎破籠井にある。ここは、落ち着く気の神社だった。山の神に感謝をささげるためにその地に、祈りの場を作ったのが始まりのように感じた。神秘的な空気感が漂っていた。感謝。

稲佐山の夜景

スロープカーに乗り、夜景をみるハズだったが、前日の大雨でスロープカーは運休していた。しかし、宿泊したルークプラザホテルから美しい夜景を堪能することができた♡感謝

稲佐山の夜景

今回、訪れる予定だったが導かれなかった場所。

  • 長戸鬼塚古墳
  • 阿蘇神社

エピローグ 水の記憶の中で

諫早という街は、だたの地方都市ではないと感じた。古代から続く「水と祈りと宇宙との接点の街」だ。川と海、宇宙。

昭和32年の7月25日から26日にかけて諫早地方を襲った豪雨は、1日で588ミリを記録する激しいものであった。このため、本明川をはじめとする市内の全ての河川は氾濫し、上流部の至るところで山津波が発生した。土石流が多くの田畑を岩石で埋め尽くし、多数の民家と人々を飲み込んだ。(国土交通省 九州地方整備局.HPより)

災害は、人間にとっては起きて欲しくないものかもしれない。しかし、その土地にとっては必要なものの気がしてならない。

何故?

浄化のエネルギーと創り変えが必要な場所。そして、隠されたものを表に出す必要のある場所。そんなところに災害はやってくるのではないだろうか。大事なものが集まったり、離れたり。

川、海、山、木々など自然に感謝することを忘れず、自然と調和していく。古代に生きた人々は、それを日々の生活の中で大事にしていたのだと想う。

諫早という街は、改めてそれを教えてくれた気がする。

原爆落下の街から軍艦島へ

2日目

 プロローグ ― 路面電車に揺られて

チン…と、優しい鐘の音が響く。

長崎の市電が、ゆっくりと街を滑るように走っていく。窓の外に広がるのは、坂の街。石垣の家々、静かな路地、そしてどこか懐かしい風の匂い。

長崎の市電


この街を歩くと、古代の祈りと近代の記憶が、一つの地層のように重なっているのを感じる。西山神社から始まるはずの2日目の旅は、その重なりをたどるような時間になった。


導かれし諏訪神社

西山神社へ向かったが、駐車場がわからなかった。通り道で諏訪神社駐車場の案内看板を見つけた。googleMapで検索すると、諏訪神社と西山神社は、近くにあることがわかった。諏訪市にある諏訪大社は、以前訪れようとしたとき、止められた場所。「来るべき諏訪はここだったんだ!」と想った。

諏訪神社

鎮西大社諏訪神社は、とても広かった。坂道を登り、石段を一歩ずつ踏みしめる。その先にそびえるのが、長崎の総鎮守・諏訪神社。大門をくぐると、夏の光が社殿の檜皮にやわらかく反射する。そして、お宮参りの家族に出会った。

ここには、海を越えて来た神々――

諏訪大社から勧請された建御名方神と八坂刀売神が祀られている。風が吹き抜け、鈴の音が澄んで響く。その響きの奥に、古代の“アマカミ”の気配を感じた。この神がなぜ、この港町に鎮まるのか。それは、異国と向き合う長崎という土地にこそ、“祈りと護り”の柱が必要だったからかもしれない。

御由緒を読むと長崎は、戦国時代にイエズス会の教会陵となり、諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されたりした。江戸時代になり再興し、長崎の産土神となったようだ。

以前から「ヒルコ」という音の響き、「蛭子神社」がともて気になっていたので、本殿横にある「蛭子神社」を見つけたとき、私はココに呼ばれたと直感した。

蛭子社

蛭子(ひるこ)とは。。。

古事記や日本書記では、イザナギとイザナミの子として生まれたが、不具の子として流されてしまうとされる神様。私は、これを読んだときどうしても納得できなかったのです。しかし、「ホツマツタヱ」に出会い、その謎が溶けることになります。

「ホツマツタヱ」では、イザナギとイザナミの第1子。アマテル(天照大神)の実姉。昼に生まれたから「ヒルコ」。両親の厄年に生まれたので捨て子にされるが、カナサキ(住吉神)により西宮で養育される。ヒルコの通称は、ワカヒメやシタテルヒメとも呼ばれる。和歌の名人でもあり、アワ歌をハニフダ(金属の札)にして世に広められたのです。旦那様は、オモイカネ。
これらを読んで、納得!腑に落ちた瞬間。

そして、オモイカネ様に導かれ、それも「ホツマツタヱ」に気づくきっかけになった旅だったのです。お会いした旅の記事は、こちらから。

アメノミナカヌシ様の西山神社

今回、長崎のアメノミナカヌシ様にお会いしたくて、検索したら「西山神社」と出会った。諏訪神社から歩くこと10分くらいで、西山神社への参道であるながーい階段の麓に着いた。先ほどの諏訪神社もかなりの階段だったが、こちらもかなりの階段の上に鎮座されていた。しかし、西山神社の手前「大星稲荷社様」が鎮座されていた。見張り役ですね。

大星稲荷社

大星。また宇宙を感じるネーミング。そして、エネルギー満タンです♡

西山神社も妙見宮。「星に願いを」ではないですが、夜空に浮かぶ星への祈りを連想させる。そこは、静かな森の中に佇む小さな社だった。ここには古くから、水と山を司る神が祀られてきたという。境内に立つと、風が山肌をなで、どこか遠い古代の息吹を感じた。西山の“西”は、日の沈む方角。

日本神話で“西”は、神々が海を渡って来た方向でもある。
この社が長崎の西山にあること――それ自体が、海から渡り来た信仰の名残なのではないだろうか。

西山神社

私は手を合わせ、「この地をお守りいただきましてありがとうございます。」と心の中でつぶやいた。そして、御朱印のご案内ボードに「金龍・青龍・緑龍」の文字を見つけ、龍神さまもお守りいただいているんだ!と嬉しくなった♡

境内には緋寒桜の古木があり正月には開花し初詣の人を楽しませており、
また寛文7年(1667年)ジャワからザボンの種子が伝えられ境内に播いたところ見事に成長し、その元木の種子が各地に播かれ長崎近郊、島原半島・鹿児島地方までザボンが産出されるようになった。「長崎ザボン」の発祥地であるようです。(九州神社紀行HPより)

そして!初めて息子が「ここで写真を撮って!」というではないですか!幾度となく神社参拝に連れていっていますが、こんなことは初めてです。ご縁があるのかな?と想いながら写真を撮りました。さらに、「樋口って名前さぁ。神社によくあるよね。」と言うのです。そーかなー???と想いながら、「そう?たまに見るかもね。。。」と受け答え、頭の中は「樋口???何だろう???」実は、この少し前からお友達の「樋口さん」が気になっていたので、この息子からのメッセージが、とてもココロに残りました。そして「樋口」がその頃気になっていた「ユダヤ」に繋がるとは!!!これは、少し深く掘り下げるテーマとなっていきます。(まとまり次第、ブログ記事にする予定です。)

原爆落下中心地公園

そこは、空気が急に静かになる場所だった。石碑の前に立つと、時間が静かに止まっているような感覚に包まれた。風に舞う木の葉の音が、どこか人の声のように聞こえる。地面の下に眠る無数の命。

原爆投下中心地

この場所には、“破壊の記憶”と“再生の祈り”が同時に存在している。諏訪の神々がこの街を護るように、ここにもまた、人々の“祈り”が深く根づいているのを感じた。

長崎平和公園

原爆落下中心地をあとにして、少し歩くと見えてくるのが平和公園。静かな並木道の先に、青く天を仰ぐ「平和祈念像」が立っている。右手は空を指し、左手は水平に。その姿は、”過ちを二度と繰り返さない”という誓いと”この地を永遠に守る”という祈りを表しているという。想像よりとても大きく、力強くそこに存在していた。足元には、世界各地から届けられた千羽鶴。風がふくたびに、鶴の羽がかすかに鳴り、まるで人々の祈りが歌になっているように感じた。

私は、静かに手を合わせた。「すべての命が光の中で安らぎますように」その瞬間、遠くの鐘が鳴った。それは、時間を超えて響く”平和の音”だった。

そして何故、長崎に原爆が投下されたのか?という疑問が沸いてきた。

一本柱の鳥居、山王神社

それは、西山の麓にあった。あの日の記憶を語り続ける場所。

山王神社。かつてこの神社の鳥居は、原爆の爆風で片方の柱を吹き飛ばされた。けれど、もう片方は今も立ち続けている。一本柱の鳥居――それは、失われてもなお残る“祈りの象徴”。

山王神社

鳥居の前に立ち、空を仰ぐ。青空の中に、淡い光がきらめく。まるで、再び立ち上がった魂たちが、この空の彼方へと昇っていったかのように。

私は静かに手を合わせた。「この地の痛みを、光に変えてください」と。

軍艦島へ

長崎港から軍艦島上陸クルーズ船に乗り、沖へと出た。

軍艦島上陸クルーズ


風が強く風が強く、波が高く、端島でない炭鉱島がたくさんあることを船内のアナウンスで知る。その中でも横島という今では島の上端2つのみが見える島がとても気になった。島が沈んでしまったのだ。かつて、レムリアやアトランティスも沈んでしまったことを聴いているので、沈んだ島をこれほど間近でみることができることに驚いた!

後ほど調べたことだが、沈んだ理由は、炭鉱島だった時に、埋め立てた土砂の流失と海底の地すべりや炭鉱用の坑道が掘削されたことによる地下地盤の崩壊によるものとされる。人間の手による自然破壊とも想える。しかし、それも必然なのだろう。炭を作ってくれる植物たち。海という環境。炭は自然からのプレゼントであると気づくと、そこに感謝の念を捧げる必要があるのではないだろうか?

クルーズ船は、進みやがて灰色の島影が姿を現した。――軍艦島。

軍艦島

船は、静かにそして確実に端島のドルフィン桟橋へと到着した。上陸した、その地はとても暑かった。かつて人が密集し、地の底から黒い金を掘り出していた島。灼熱の太陽が照りつけているのだが、まるでその時代の人々の熱気や炭鉱の地熱のように感じた。

今は無人のまま、海の上で静かに眠っている。廃墟となった人の手で築かれた建造物。そこで生活していた人々の声が聞こえてくるようだった。その光景はを目の前にして想った。ギリシャのパルテノン神殿みたい。栄華を極めた人々の息づかいは、国が違っても同じエネルギーなのだということだろうか。

パルテノン神殿との違いは、人工物でない場所からは緑が青々と豊かに育っていた点だ。自然の力は偉大だ!と想った。そこが人工島ではなく、自然にできた島だったという証がそこにあった。人工と自然の共存をしていた島だとはっきりわかる軍艦島。いまはただ“自然の時間”が流れていた。古代も、近代も、結局は同じ“生命の循環”の中にあるのだと。

上陸観光を終え、クルーズ船に乗り込み、軍艦島を周遊してくださる。海から見る島は、一つの都市を見ているようだった。しかし、誰もいない都市の風景は少し寂しく感じる。

波が島の壁にあたって砕け、白い飛沫が光を散らす。光輝く太陽、青い空、青い海、そしてその中に存在する「かつてのエネルギーを生み出してくれた街と人々」に感謝を送りながら、クルーズ船は岐路についた。

軍艦島

エピローグー光の記憶を胸に

長崎という街は、過去と未来、神と人、破壊と再生――

あらゆるものが交差し、溶け合う場所だ。

そして今、そのすべてが静かに調和しているように見えた。

私は心の中でそっとつぶやいた。

「この光の中に、すべての魂が生きている」

そして、「ホツマツタヱ」の”ナガサキ”という言葉の意味を想い出す。

他人の幸せを思いやる心である”ミヤヒ”の精神に満ち溢れる踊りのこと。

これからも思いやりの心で生きていこう♡

ABOUT ME
Yasuko.o
波動・感謝・自癒の原理で幸せに生きる♡を実践、サポートをしています。 ★家族2人暮らし(子供2人) ★趣味:神社参拝+美味しいお店巡り+散歩 ★好きな食べ物:バームクーヘン ★好きな映画:君の膵臓を食べたい・聖なる予言・君の名は ★好きなアイテム:千年ノート+カラーセラピー+オラクルカード ★ライフワーク:自分の魂の声のままに旅をして、その土地や古代の人々に感謝を伝えること。そして訪れた理由を探索する。それが、忘れている自分のルーツを想い出すことに繋がる。
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