東の都に響く言霊ー多賀城とホツマの記憶
東北の大地に、古代の都・多賀城跡はある。石碑の文字が語るのは、律令の時代に築かれた公の歴史。けれど、その奥には、もうひとつの古代ー
言霊と神々の物語が息づいているように感じられる。
ホツマツタヱに描かれた「アマカミ」たちの世界。それは、史書に記される以前の日本を語るもう一つの声。この地を歩くうちに、風の音や空の光の中に、その「言の葉」の響きが微かに聞こえてくるような気がした。
「よくきましたね。」
浮島神社へご挨拶
東北本線の国府多賀城駅を降りて、左へ進むと「館前遺跡」がある。今はこんもり小高い丘のみだが、そこにはかつて四面に廂がついた大型の建物が規則正しく建っていたようだ。
空には、雲の間から光が差し、歓迎されているように感じた。

もとの道に戻り、まっすぐ歩くとすぐに右手前方に「浮嶋神社」の鳥居が見えてきた。
旅先では、まず神社へ参拝する。これがルーティンとなっている。やはり、その土地の神様へご挨拶をしてから旅をすると、気持ちがいい。

鳥居をくぐり、階段を上るとお正月の支度をしている様子だった。左右に小さな祠が一つずつ。赤い柱に囲われていた。「三居稲荷神社様」と「「大臣宮神社様」。あとで氏子さんに聞いた話によると、2社とも現在はマンションになっている場所にあった祠を遷して合祀したとのことであった。合祀できたよかったね。


浮嶋神社のお手水は、御神石として可愛い扇模様が彫られていた。お水に感謝を伝えた。

本殿をお参りさせていただき、気になる右側へ。階段ではない土の下り坂だった。「歌枕浮島参道」と名付けられたその道の両側には和歌の碑が複数立っていた。そして、その参道の鳥居は、古代の香りを感じさせてくれる2本の木にしめ縄というスタイルだった。

多賀城址を歩くー石碑に刻まれた言葉
浮嶋神社を後にし、県道35号線を西へ歩くと、5~6月頃には美しいあやめが咲いているんだろうなぁ。と想われる場所を左に見ながら、空の青と土の茶のコントラストが美しく思わず写真を撮った。

その景色にそこで暮らす古代の人々の穏やかな空気を感じた。
「多賀城跡東南隅」の石碑を発見し、そのまま小高い丘をゆっくり歩いていくと、やがてあの有名な多賀城碑「つぼの石ぶみ(壺碑)」の看板が現れた。そこには江戸時代に描かれた絵図があり、今とは違った景色がそこにあったことを物語っていた。
そして、「ホツマツタヱ」のクニトコタチノ8人の皇子の一人「タ」の命の都はこの地の辺りにあったと想われている。
つぼの石ぶみは、木製の格子でできた建物の中に大切に保管されていた。今では文字はうすくなり肉眼では認識できないが、その石のエネルギーは力強く感じ光を放っていた。そして、古代の人々が”言葉”の力に祈りを込めたようなーそんな”言霊”の響きを感じる。
石碑には、都からこの地までの道程や成り立ちが漢字で刻まれている。今でいう看板と同じ役割をしていたように想う。天平宝時六年十二月一日との記述から奈良時代に建立されたものだ。その一文字一文字に、かつてここで暮らした人々の息づかいを感じるともに、この大きな石版にどうやって彫ったのだろう?と少し疑問が沸いてくる。彫った人のエネルギーを受けた言葉。この石の中には、千年以上の”祈り”が今も息づいているのかもしれない。
反対側には、多賀城南門が力強く建っている。

遠い時代の声が、そっと耳元でささやく。「この地を見よ、言葉の響きを聴け」と。



信号を渡り、多賀城跡の入口に立つと、まず目に飛びこんできたのは、大きな空間。その日は、午後からお祭りのイベントが行われるようで太鼓の音が鳴り響いていた。しかし、頂上へ到着すると、まるで古代の人々のエネルギーが渦巻いているような強い風が吹き、たくさんの人々がそこにいたのだろうと想像ができた。きっと今日のように、人々が集い、賑わいお祭りをする日もあったのであろう。
ここで、不思議な岩たちをご紹介する。多賀城址の西側にそれはあった。

ここにある意味はわからない。何かはわからない。でも気になる岩たち。「ありがとう。」
ホツマツタヱの響きー古代の神社巡り
多賀城址を後にして、「多賀城神社」を目指した。そこは観光地というよりも、”時の止まった空間”のような静けさが漂っていた。
こじんまりとした神社。ここは、古代の息吹を感じないと想ったら創建新しく、昭和27年でした。しかし、由緒書きに「後醍醐天皇の第7皇子が多賀城に下向せしめられた。」と書いてあった。後醍醐天皇は、奈良県の吉水神社の歌会でお繋がりいただいたので、嬉しかった。

次の目的地は「多賀神社」。歩くこと数分だった。そこは、風が吹くと吹き飛ばされそうな古めかしいお社。しかし、エネルギーは強かった。ここだ!
看板には、「滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請したと伝えられ、かつては北東約50mの位置にあった。」と記載されている。しかし、ここにいる。そう感じた。

お参りしていると。。。「よくきましたね。」と”声なき声”。
それを聴き、私の思いは自然と「ホツマツタヱ」へと向かった。
ホツマツタエ――それは、古代の日本を“言の葉”で織り上げた美しい物語。ヲシテ文字で綴られたその書は、縄文時代にまで遡る。天地の始まり、人々の暮らし、そして言霊の法則までもが詠み込まれています。
ホツマツタヱでは、東北の地を「ヒタカミ(日高見)」と呼び、特に多賀城の辺りはタカミムスビ家の宮があった「ケタツボ」だった。「ツボ」とは重要な地を表す言葉。多賀城碑「つぼの石ぶみ(壺碑)」の「つぼ」と繋がっている。やはり、言葉(音)は受け継がれる。時代が変わっても、その音の響きは、その土地に根付いているのかもしれない。
「多賀神社」の後ろには、広大な敷地。ここは、多賀城六月坂地区の役所跡とされ、平安時代には掘立柱建物が建っていたようです。また、竪穴住居跡も残っていた。縄文の息吹を感じる言葉。
後ろ髪を惹かれながら、次の目的地「陸奥総社宮」へ。
途中、空を見上げると、薄い雲がゆっくりと流れていきます。風が頬を撫で、木々がざわめく音が、どこか懐かしい旋律のように響いた。それはまるで、ホツマツタエに記された“言霊の歌”が、時を超えてこの地に流れ続けているようだ。
そして、大好きな柿の木を発見!守られているように感じた瞬間だった。

左右に平安時代の遺跡を見て寄り道しながら歩くこと、約20分。
「陸奥総社宮」が左手に現れた。

入り口の両側に陸奥国にあるすべての神社名が記されていた。圧巻。陸奥総社らしく、創られし神社と感じた。気は整っていたので、大事に守られているのであろう。
屋根の上に黄色に染まった銀杏の葉っぱで形作られた模様が、なんとも面白い。御神輿も飾ってあった。子供たちの声が聞こえてきそうだ。


駅までの帰り道、この地の縄文の神々に想いを馳せた。
「アマカミは、言の葉をもって国を治めた」―その一節が思い出される。それは、トの教え。形となったものが勾玉。言葉には、形を超えて人の心を動かす力がある。そうした“言葉”が、この風景の中にも生きている気がする。
縄文の人々は、言葉を“発する”のではなく、“響かせていた”のかもしれない。耳ではなく、心で聴くように。その感覚が、この地の空気にはまだ残っている―そう思うと、静けさの中に不思議な温もりを感じた。感謝。
おわりにー言霊の記憶を胸に、次の旅へ
帰りは、来た道をひたすらウォーキング。
鳥の声、遠くの街のざわめき、そして風の音。そのすべてが、まるで古代から続くひとつの旋律のように重なり合う。ふと見上げた空の向こうに、かつてこの地を治めた縄文の人々の姿が重なる。彼らもまた、同じ空を見上げ、同じ風の中で何かを感じていたのだろう―
そう思うと、時の隔たりがふっと溶けていくような感覚に包まれた。ホツマツタエに記される“つくす・やわすのトの教え”。それは、人と自然、言葉と心、あらゆるものの間に調和を見いだすという、縄文時代の日本人が大切にしてきた世界観だ。
多賀の神社巡りの静寂の中で、その“和”の響きが確かに息づいているように感じた。風は言霊を運び、光は記憶を照らし、大地はそれを静かに受け止めてきた。私はそっと思う。―この道は、古代から今へと続く“言葉の道”なのかもしれない。そして私は、その道の上を歩きながら、時に迷い、時に響き合い、また新しい言の葉を紡いでゆく。
言葉とは何だろう――。
ホツマツタエの“言霊”という響きが、この旅の間中、私の中で小さく鳴り続けていた。それは、ただ語るためのものではなく、世界と心を結びつけるための“橋”のようなもの。人と人の間に、自然と人の間に、見えないけれど確かな“やわらぎ”を生み出す力。
多賀城の石碑の前で感じたエネルギーも、ホツマツタエに綴られた神々の歌も、きっとその“橋”の向こうから届いた記憶なのだろう。
旅を終えても、記憶は続いていく。風の音、鳥の声、そして心の中に響く古代の言葉たち。それらは、これからの道を照らす小さな光となり、私をまた次の地へと導いてくれる。
―次に出会うのは、どんな記憶だろう。
そう思いながら、燦燦と照る太陽の光輝く空に小さく手を合わせた。
「ありがとう」
そうつぶやいた声が、風に溶けいく。

